読了記録「僕の中の壊れていない部分」

タイトル通りその感想を書こうと思うけど、多分まともな分析とかそういうのはしないのでうっかり押して読んでいる人いたらすみません。


3人の女性と関係を持ちながら深く関わろうとしない主人公が日常を送りながら、
答えの出ない自問を繰り返す。


主人公は好きになれないけど、共感はできるなという感想。
何か抽象的なことを考えようとするとき引用がひたすら入る。
三島由紀夫やトルストイなど名だたる人の引用。
感情の起伏が激しいが、表に出てくる行動としてはただただ不可解な人という感じだろうな。
でも不可解だけど悪い人じゃない。何か別のどこかにいきたがっている、求めている。それに対しての一連の行動には誠実さが滲み出る。


「僕はなぜ生きているのか」ではなく
「僕はなぜ死なないでいるのか」
「僕はなぜ生かされているのか」


なんだかそういうのを自分でもうっすら考えていたような気がする。
特に「僕はなぜ死なないでいるのか」という問いは。
生きるということについて自分では意思を持って生きている。つまり死ぬという選択を今のところしていない。ただその選択肢を自分では常に持っている状態であるという感覚が昔からあった気がする。


この本によると自分がその選択肢を持っているわけではなく、生まれた時から自分の意思で生まれてきたのではない、他者によって生み落とされる。自殺は自分を他人のように殺してしまう行為だと書いてある。
そして意思を持って生きているのではなく他者によって生かされている。
そういうのも理解はできる。


人と関わりを持っていない時間が長い時、主人公は
僕には今、時間が存在していないといった。人=時間、でもそれらは全く別の意味を持っている。とも。


タイトルは僕の中の壊れていない部分とあったが、最終的に壊れていない部分が分かるのかと思って読み進めた結果。これは壊れているのか、壊れていないのかという問いよりも先に壊れているというのはどういうことをいうのかという問いにぶち当たる。


その人の姿形というか客観的にみたとき
仕事もまともにこなし、複数の女の人と関係を持っているとは言ってもそれらの女性に対して極めて不誠実なことをしているかといえば一人一人に対しての接する行動などをみているとそのようにいうのも違うような気がするし。


他者に対しては他者として接するという徹底ぶりとか
自分と他者がわかり合うということに計り知れないほどの分厚い壁を築いているところとか
最初から最後まで出てくる枝里子という女性に対して、
その女性の行動に対して何か感情を持つというのが極めて少ないところとか。
人の行動に対して怒りを感じている場面が多いような。


ちょっと一言でこの本はこうでしたっていうのは
難しいという本であることは間違いないし、何か共感するところが多くあった気がする。


何度か読み返してみないとおそらく逃しているものがある気がする。
もう少し本質的なことが読み取れるかもしれない。


月の満ち欠け 佐藤正午氏の小説に続き、僕の中の壊れていいない部分 白石一文氏の小説を読んだ。
こうも連続で小説を読み切るのが久しぶりで、小説を読んでいる時に物語に引きずり込まれる感覚と読んだ後の何も考えられない時間とかそういうのが久しぶりで
なんでこんなに長い間小説から離れていたんだろうと思った。


自分は多分「物語」を必要としている派で
高校のとき、鬼のように読書してからは漫画やアニメ、音楽、映画など多分そういったもので自分の知らないどこかへの憧れ、物語、フィクションを渇望する感覚を補ってきた。


でも久しぶりに小説を読むと他の表現とも違う、もっと自分の深い部分から色々なものが引っ張り出されて、そう簡単には逃れられないような、没頭する感覚がある。


漫画やアニメや映画はビジュアルがある。
躍動感やテンポ、何より具体的である。批評しやすい。見た時の記憶も人と共有しやすい。


だけど小説は何か違う。文章だけだと自分の想像する範囲や今まで経験してきたことによって文章から想起されることが全然異なるのではないかという気がする。


遂に小説を読んでしまったという感覚。
これにハマると抜け出せなくなりそうで怖いと思っていたんだが
もう後戻りはできなそうなので今年はむしろ本を忘れるために本を読むということになりそう。どんどんナイーブになりそうで怖いな。
これ以上生きにくくなったらどうしよう。笑
そう考えると鈍くいられた方が生きやすいから、小説から離れていたのかもしれない。


それで思い出した最近の出来事があって。


岡山芸術交流のアート達を見にいった時に
映像作品で女性の人が全裸で(靴は履いている)、
その出展されているアートや場所の前でひたすら踊っている映像があったのだけど、
その時最初は女性の体つきや凹凸に目が行った気がするけど、
なんとなくそこまで感情移入せずなんかその踊りが奇妙で笑けてきて面白いなって思っていた程度で


ただその後、岡山芸術交流の他の展示を見て回っていた時に、新しい展示作品や場所を訪れるたびにその女性の踊りが思い出されて


物事を「記憶する」ということが漠然とした景色や展示作品だとどうやら忘れやすく
何かその女性の全裸の踊りが自分とその景色や作品だったりの関係の仲介に入ってくれているようなそういう感覚があった。
場所を記憶するっていうことは常に仲介するものがいて例えば幼いときであったら虫だったり花や植物だったり自分の近くにいて細かいものが存在してやっと場所を記憶できるんだと理解した。


なんか「記憶する」ってそういうことなのかって思ったってことを
設計事務所の同僚に話したら


「そっか。それは確かに面白い。。。けどなんかそういうこと考えるのって学生の時は考えたりして面白いって思ったけど、なんかそういうこと考えるの考えなくなったな」と言われて


「それってなんでですか」て聞くと


「うーん。お金に直結しないからかな。」
と言われ、
私は言葉を失ってしまったけど


なんかそういう抽象的なことを突き詰めて考えてみたり、自分なりに解釈を変えてみたりということを昔から繰り返す癖があって
それを深めたり考えたりする行為として美術に触れたり小説を読んだりという行為が当てはまると思っていて


さっきのそういう人たちに合わせる必要は毛頭ないというのはわかっているけれど
なんか踏む出すのが怖いと感じるのは自分がただ考えすぎているからなのか、そんなに恐れることない、大したことないことなんだろうけどどうしようという迷いがある。ずれているものが更にずれていく。


全然それたけど、タイトルの本から考えたことはそんな感じ。

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