明けまして茶の湯の中

2015年。という実感はなくとも、年が明けて新しい年になったということの実感は少なからずある。
あと数週間すれば、私は25歳になる。四半世紀生きている。まだ若いといえるか分からない。25歳といえばまだ若い気がするが、25年間といえばとても長い時間のような気がする。ただ文化や環境がそうさせているだけで、生きていて当たり前という年齢ではあるまい。長く生きているような気持ちであるけど未熟極まりない年齢。


当たり前という事の偉大さと怖さに気付いたのは大学3年生だったかもしれない。偉大さというのは少し違う。当たり前とは普遍を表し、でもそれは不変ではない。変化する。人の間に流れるものであり、それは根付くものだ。それらを形成するプロセス・説得力のようなものは時間であり人の感情である。
その存在に敬意を示していた時期はあった。だが、敬意をしめすだけではいけないとわかったのが大学3年の時であった。
脱線はしたくないので話題を戻すと、年をとることは当たり前ではない。年をとるという選択をしているのだ。それは無意識な人がほとんどだが、常に生死の選択をしている。選択をできない場合もある。
その中で私は25年間生きていることができる。これから自分がどう生きていこうかということをしっかり考えなくてはなるまい。自分の立ち位置を把握し、なにをしていくかを考える。


今年、私は建築の夜間学校にいこうとしている。大学でも建築コースを選択していた。社会人になり設備を1年数か月、空間デザインを1年数か月した。
これを経て私がこれからしなければいけないことは、「建築とはなにか」ということを考えることなのではないかと思った。これは現在勢いのあるマンション乱立やもの自体の魅力の見分け方について反発かもしれない。建築とは、機能や設備、利便性だけでは語りつくせないものである、、はずだと考える。
しかし最近となっては駅から何分でリビングとキッチンがあって、お風呂とトイレは別が良いわよねといった感じの八百屋の値札がぶら下がっているのを読み上げるだけといったようなとても安易なものの見方が横行しているような気がする。それは誰でも考えることなのかもしれない、幼稚な発想で少し恥ずかしくなるがそれは何年か前からそのような反発心がある。

私はしばしば原始に回帰することを考えてしまう。これは一種の方法として未だに良いアプローチであると思っているし、そういう考えはおそらく変わらないかもしれない。
がしかし、情報化という時代の中で、はたしてこのような考えでよいのか。無知であるが故なのではないか。それとも私の尊敬するI氏の本の受け入りか猿真似なのか。わからなくなった。
そこまで掘り下げて考えられていないが、ここで考えの落とし込みと形を変えてみることは重要かもしれないと考えたのだ。
だが、志望動機という紙面でおさめる際に何とかけばよいのかわからない。これをうまく伝えるにはどうすればよいのか。


お茶を沸かして考える。乾燥した葉をいれ、お湯をそそぐと黄緑色の湯ができあがる。
葉とお湯の融合。そこに古臭さと知恵を感じる。今日も美味しい。
舌と脳の洗脳でもあるかもしれないが、これは落ち着く味である。

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