微粒子の充満

今、磯崎さんの本を読んでいる、日本建築思想史という本、、


谷崎潤一郎と九鬼周造の関係について語っている部分で気になる言葉を書き残す。


天心が「道」九鬼が「いき」谷崎が「陰翳」をつうじて語ろうとしたのは江戸システムが列島の都市のなかにつくりあげた文化的空間であった。


谷崎潤一郎が「灯に照らされた闇」の色について細かい灰に似た微粒子の充満と表現したとのこと。


そこまで読んだ瞬間に行を追う目とめくるために添えた手が止まる。

頭で黙考する。その言葉を見た瞬間、一瞬にして共感できる感覚が日本人にはあるのではないかと。

そして、空(カラ)の間に充満する微粒子を想像すると自分の中で高揚した気持ちになった。想像の匂いや色や温度や感触が一気に押し寄せてきて、少し寒くなった。

それは目にしたこともあるし、感じたこともできる気がする。


建築や空間を考えるときに壁や床や天井といった目に見えるものしか見ていない人はおそらく好いものはできないのであろう。感嘆させるような建物には必ず回りにある空気の形や舞っている空気の流れが異様で、それが伝わってくるのだ。


その空間・虚に関しては岡倉天心が「茶の本」で老子の言葉を用いて器や形が重要なのではない。その間にある空気・虚が最も重要となると書いているように


何もないと見せかけた虚こそがメインであるということ。


そのことは最近よく考えていて、その中での「微粒子の充満」という表現、


自分の中でとてもタイムリーというか、思わず本を読まず自分の世界に入り込んでしまう。そんな言葉だった。


そういうことが本を読んでいると度々あり、なかなか読み上げられない。

すべてを受け止めるまでいかない。


陰翳礼賛は必ず読まなければ。


とりあえず書き留めることは書いた。学校の設計課題について書きたいがそれはまた違うときにしよう・・

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