9月3日

本を読みました。
ピーターズントー(本来はペーターツトムア)の本を2冊。
「空気感 アトモスフェア」と「建築を考える」の2冊。


図面や写真は拝見したことはあったけど、考え方を示した本ははじめて読んだ。
さまざまな名言というか、共感できるというと少し言い方が可笑しいが頭にすっと入ってくる言葉がこれほど多い建築家ははじめてかもしれない。
実験的なことを試みること、新しいことを試すこと、とがったセンスを磨くなどという概念は彼の中にはない。人に寄り添い、空間が歳をとっても、人に、場所に、環境にとって特別で豊かな表情をする老い方をすることが念頭にある。人間の欲というものがそぎ落とされた修行僧のようでもあるし、純粋な瞳を持った少年のようでもあるといった不思議で惹かれる要素の多い建築家だ。


心の入ってくる言葉が多く使用されているのでここにメモ。


特定の素材がそれの置かれる建築的脈絡においてどんな意味を持ちうるかについて、たえず自問していく必要がある。


構築(コンストラクション)とは、多くの細部からひとつの意味ある全体を形づくる術である。どのような課題を持った建築であれ、その根源的な核にあるのは構築の行為である。


私たちはどうやら矛盾とともに生きることに慣れてしまったようだ。
伝統が滅びつつある、統一的な文化的アイデンティティはもはや存在しない。経済や政治は巨大なダイナミズムのもとに発展を遂げ、その全体像を把握し制御することはもう誰もできなくなっている。(略)一切が漠然とし、ぼんやり霞んでいて、なにかしら非現実的である。世界は事物を指す記号や情報であふれているが、その事物はそのまた別の事物の記号にすぎないため、結局すべてを把握できる人は誰もいない。真の事物は隠されたままである。その姿を見ることは誰にもかなわない。にもかかわらず私は、たとえ危機に晒されていようとも、真の事物はある、と確信している。大地や水が、陽光や風景や植物がある。機械や道具や楽器など、人間が作り出した物がある。それらはありのままそこにあるのであって、人為的なメッセージを発することもなく、自明のものとして存在している。


時の経過とともに自然なかたちで土地の姿と歴史と一体になっていく建物を設計すること、私のじょうねつを掻き立てるのはそれである。


あー。いっぱいありすぎる。スイスに行きたい。この人のいう建築を体感したい。
私は決して感受性豊かな方ではないけれど、この人の建築であればなにか染み渡ってくれそうな、そんな気がしている。


エットーレ・スコラの映画「ル・バル(ダンスホール)」をみたい。
本に出てきた。


文章を引用。
すべてがダンスホールの中で展開する。私の記憶が正しければ、会話もなければ場面転換もなく、ひたすら音楽と、踊っている人間がでてくるだけである。
終始おなじホールが映し出され、おなじ人々が入ってきて踊り、そのうち時が過ぎていき、踊り手は歳を取っていく。映画の中心をなすのは登場人物である。しかし寄木張りの床や壁の板張り、背後の階段や側面にあるライオンの足など、映画の濃厚な雰囲気を醸し出しているのはこのダンスホールにほかならない。いや逆に、人々がこの空間に独特の雰囲気をもたらしているのだろうか。


とある。


映像を介して空間を体感する、ということもあるかもしれない。
それは体感とはいわないかもしれないけど、観察者としての空間。第三者の客観、自分は含まれない、異国の空間。
それはとても魅力的かもしれないとおもった。ぜひとも見てみたい。TSUTAYAでかりれるといいけど、無理そうだな。なんかマニアックっぽいし。


いんやー、読んでよかったな。図集も買うか迷ってる。やはり図面やスケッチの集大成は見ておきたい。2万以上するけど、買おう。きっとその価値ある。
ポートフォリオを英語でもつくろうと思う。
この読んだ時の臨場感がずっと続くようであれば、ピーターズントーの事務所にポートフォリオを送ってみようと思う。
スイスで建築ってのも悪くない。
そうなると色々失うものもあるんだけど。
とりあえず、今は余韻に浸っとこう。
今日は久しぶりの大学の友達に会う。半年間宮城県で自給自足して帰ってきたみたい。
いろいろ話を聞きたい。


今日はスケッチなし。


いってきます。

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